✦哲学的に考えることと、臨床と

(この文章は、日本フォーカシング協会のニュースレターのリレー連載 「研究者の数珠つなぎ」に久羽トレーナーが寄せた原稿:The Focuser’s Focus 第22巻第3号(2019年11月20日発行), pp.15-17. をウェブサイト掲載用に修正したものです。)

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哲学的に考えることと、臨床と

今回は哲学の話です。私は臨床心理学を専門にしていますが、ジェンドリンをはじめ哲学には興味があり、少し哲学的な論考も書いてきました。とはいえ哲学をちゃんと学んだことはありませんし、ちゃんとした哲学論文を書いているわけではなく、哲学的な観点から臨床について考えてみる試みをしている、という感じです。あるいはもう少し正確に言うと、臨床のことを考える中で、哲学的に考えるということが自分の中で必要になり(元々「考える」のは大好きなのだと思います、多分)、ある時にふと、心理臨床の世界というのは、それを論文として書いても許される世界なんだということに気づいた、という感じでいます。ですから、心理学のいわゆる「研究」をしているという感覚は私にはなく、自分が「研究者」であると言っていいのかどうかよくわかりません。私が論文を書くことでやりたいことはおそらく「研究」ではなく、自分は臨床をやっている中で、こんなことを考えたんです、というのをみんなに聞いてもらって、そしてもしそれが読んでくれた人のうちの何人かにでも、なにかしら意味のあるもの、なんらかの刺激として響けば嬉しいなあ、というような感じのことなのです。

さて、なぜ哲学なのかということなのですが、私が考えるに、哲学というのは必ずしも格好よく高尚なものというわけではありませんし、あるいは抽象的で単に思弁的なものというわけでもありません(思弁的は思弁的かもしれませんが)。多くの研究や思索が、これまでの知見の積み重ねの上にさらに知見を積み重ねて、言うなれば学問のピラミッドのようなものを高く高く積み上げていこうとするものであるのに対して、哲学は当たり前すぎて考えもしなかったようなところを考えてみること、つまりピラミッドの土台を掘ってみたり、あるいは自分自身の足元さえ掘りはじめるような、そんな営みなのだと私は考えています(「現代の」哲学は。かつては理性によって何かを知るという営みはすべて哲学と呼ばれていたようです)。科学的にピラミッドを積み上げていこうとしている研究者にしてみれば、土台なんて掘ってどうするんだ、何の役にも立たないじゃないか、と思われるかもしれません。足元を掘ってもピラミッドは高くなりませんしね。むしろそういうところに目を向けはじめると、これまで積み上げてきたものの土台が揺るがされたりしかねないわけですから、できればそっとしておいてほしいという部分もないでもないかもしれません(哲学者は場合によっては、そもそも科学的方法論ってどうなのだ、と言いはじめたりもしますから)。しかし、科学全体の発展や特定の学問の発展の過程で、必然的に哲学的な問いに行き当たってしまうこともあります。20世紀の物理学は、相対性理論や量子力学の登場によって、「空間とは何か、時間とは何か」「物が存在するとはどういうことか」「物はそれを見ている意識と無関係に自立的に『存在する』と言えるのだろうか」といった根本的な問いにぶつかりました。そのような根本的な問いにぶつかった時、哲学的に足元の部分をしっかり考えるのは、決して思弁的なだけの無益な作業ではありません。むしろそこをきちんと問題にすることで、これまでよりも土台をしっかり作り直し、これまでよりももっと高いピラミッドを築くための基礎がためができたり、あるいはこれまで積み上げてきたものの本質をより深く知ることができたりするのです。

おそらく自分の中に漠然とでも、これまで当然と思ってきたこと、あるいはそういうものだと教えられてきたことに対するなにかしらの引っかかりがあるのでなければ、言いかえればなにかしらの「問い」が出発点にあるのでなければ、哲学の学びはあんまり面白くない、場合によっては苦痛なものになってしまう気がします。哲学に触れることはおそらく、学校の授業のように「これを覚えた方がいいらしい。よし、学ぼう」という形で(知識のピラミッドに何かを積み重ねるようにして)はじまるわけではないのです。むしろ、問いにガツンとぶつかってしまって、当たり前と思っていたところが定かでなくなって、ちょっとわけがわからなくなるというような、そういうところからはじまるのではないかという気がします。そしてそんな時には、世界が存在することが不思議に思えたり、「私」というものがいったい何なのかよくわからなくなったり、毎日を生きているというこの営みにどんな意味があるのかがうまくつかめなくなってしまったりします。それはとても具体的な感覚です。哲学の難しさは、数学の難しさのように、入り組んでいて抽象的だったり、理解するのに土台となる理論的知識が必要だったり、そういうところにあるのだというよりも(もちろんそういう部分もあるでしょうが)、何よりもまず、度を超えて具体的であること(少なくとも現象学哲学はそうでしょう)、そしてそこでは、私たちが何かを考える際の前提となっている言葉の通常の意味が普段のようには働かなくなってしまうというところにあるのだと思います。哲学では、言葉が意味を持つとはどういうことなのかとか、「私」が何かを語るとはいったいどういう事態なのかとか、そういうことまで言葉で考えようとするわけですから。

さて、私自身の話に戻りますと、私は(フォーカシングのセッションだけでなく)個人カウンセリングを専門にしているのですが(今も個人のオフィスでカウンセリングをしています)、心理士として仕事を始めた頃、カウンセリングというものが役に立っているのかいないのか、いったいどう役に立っていて、そしてなぜ役に立つのかということが、私にはよくわかりませんでした。そういうところで、大きな問いにぶつかって途方に暮れていたように思います。それでいろいろなものに手を出してみて、どれもそれなりに役立ちそうだったのですが、中でも私のぶつかっていた問いに納得のいく説明を与えてくれそうだったのが、精神分析の対象関係論と、それからフォーカシングだったのです。ジェンドリンは、人が何かを語るということの中でどんなことが起こっているのかということについて考えていました。ですから私にとってフォーカシング(というかジェンドリンが考えたり言ったりしたこと)は、自分のカウンセリングに新しく付け加わる技法というより、カウンセリング(というか人の話をちゃんと聴くこと)という営みの「足元」を見つめ掘り下げるための、一つの指針という意味あいが強いように思います。ジェンドリンの観点を通して見てみることで、カウンセリングのプロセスで何が起こっているのか、何が大事なのかということが、もう一歩本質的なところから見えてくるように思うのです(こう書いていると、「本質」って何なのか、みたいなところにまた引っかかってしまうわけですけれど)。

そういうわけで私の「研究」は、ジェンドリンの理論の観点を借りてカウンセリングという営みの「足元」を掘り下げてみる、あるいはジェンドリンの言ったことに対する自分の理解の「足元」を自分なりに掘り下げてみる、というものがほとんどです。そういうことを考えるのは、私にとってはけっこう楽しいことです(今は博士論文を書きおえて、自分の中では掘り下げがひと段落ついて、さて、これからどうしよう、というところにいますが)。そういう思索を心理学の世界が「研究」として受け入れてくれるのは、やはりジェンドリン達が「そういうことってカウンセリングに関係があるよ、大事だよ」ということを示してくれたからだと思います。しかもジェンドリンの理論は、唯一絶対の固定した「正解」があるとは考えず、プロセスの中で生じてくるものを大事にする懐の深さを持っています。ですから、私たちがジェンドリンの理論を理解する際には、私たちそれぞれにとっての理解があっていいのだと私は考えています。もちろん、ジェンドリンの言ったことを理解しようとする時、私たちはジェンドリンが言わんとしたことに真摯に耳を傾けて、それをそのままに理解しようとしなければならないのであって、自分勝手な「理解」をこじつけていいわけではありません(自分の考えを自分の考えとして述べるなら、それは自由にやっていいわけですが)。何かを理解するというのはとても創造的なことですが、好きに作っていいという意味で創造的なのではなく、「私」と「それ」の間に意味が生じてくるという意味で創造的なのであり、その意味でやっぱり理解すべき対象は、「私」にとって思い通りにはならない「他者」なのだと思います。でもやっぱり、それは「私」にとっての理解であっていいのだろうとも思うのです。ああ、ジェンドリンが言っていることはこういうことなのかな、と思った時に、それで本当にあっているだろうかどうだろうかと、不安になることもあるかもしれません。でもジェンドリンならきっと「君自身の内側ではどう感じられる?」と訊いてくれるのではないかと思います。彼が綴った言葉が、私たち一人一人の内でどんなふうに響き、どんな意味感覚を紡ぎ出すのか。ジーンはにこにこしながら、興味を持って、そこで生まれてくるものに温かくまなざしを向けてくれているような気がするのです。

(久羽)

哲学的に考えることと、臨床と