「よさ」へと向かう方向性

 フォーカシングの背景に、哲学者であったジェンドリンの哲学があることをご存知の方も多いと思います。ジェンドリンの哲学の著作としては「体験過程と意味の創造」や「プロセス・モデル」がありますが、なかなか難解で読むのは大変ですし、プロセス・モデルはまだ日本語訳も出ていませんし、それにジェンドリンの哲学を理解するには(多くの哲学の議論はみんなそうかもしれませんが)普段のものの見方からの転換が必要で、興味はあってもなかなか敷居が高いように思います。

 しかし最近、フォーカシングの背景にある哲学、ないし考え方として、フォーカシングを学ぼうとしている人に知っておいてほしい一番大事なことは、もう少しシンプルなことかもしれないと思いました。それは、人間は(あるいは、いのちは)、よりよい方向へ進もうとする傾向をおのずから持っている、ということです。

 「よりよい」というのがどういうことなのかというのは、それはそれでまた難しい問題です。おそらくそこには、より「適応的」であるとか、より「正しい」とか、「成長」へと向かうことであるとか、そういったものが含まれるでしょう。でも、そういった言葉では表現しきれないものもそこにはある気がします。「社会に適応して、正しく、なんてごめんだぜ!」という人もきっといるでしょう。でもそういう人にとっても、自分の内に注意を向けて、自分にとって大事なものは何だろうと感じてみると、そこには自分なりに確かなよりよい方向の感覚があるはずです。それは、自由であること、という感じかもしれませんし、「よりよく」なんてことを強制されずに自分自身でいられること、かもしれません。それはそれ自体、やはりその人自身にとっての、何か感覚的に確かな「よさ」です。私たちのからだはそういう感覚をちゃんと持っています。私たちがそれに耳を傾ける術を知っていれば(そして願わくば、その自分にとっての大事な何かを大事に受け取ってくれる誰かが一緒にいてくれれば)、私たちはそれにアクセスすることができます。おそらくそれは、私たちが一人の人間であるという以前に、一つの有機体である、一つの生きたからだであるという事実に基づいています。たとえば植物は環境さえ整っていれば、自分自身で伸びていく力をちゃんと持っています。時には障害物が植物の成長を阻むことがあるかもしれませんが、障害物を取り除いてやれば、そして必要なだけの日光と水があれば、植物は自分に必要なプロセスをちゃんと先へと進めていきます。

 この「哲学」は、ジェンドリンというよりも、ジェンドリンの共同研究者でありパーソン・センタード・アプローチの創始者であるカール・ロジャーズに由来する哲学かもしれません。しかしジェンドリンは確かにこの哲学を共有していたと思います。私たちは厄介なことに言葉を持っていますので、言葉で作られた融通のきかない枠組みによって、自分の有機体としての成長可能性を自分で抑え込んでしまいがちです。しかし言葉は、私たち人間にとって、有機体としての豊かなプロセスにアクセスする手段となってくれるものでもあります。私たちがどんなふうに自分自身に語りかけ、耳を傾けるかが大事なのだろうと思います。

 自分自身の内なる方向性を大事にして、それに場所を与えることは、怖いことのように感じられる場合もあるかもしれません。私たちの中には、すごく自分勝手になったり、すごく貪欲になったり怠惰になったりするような傾向もあるでしょうし、いったん解放したら抑えきれなくなってしまうんじゃないかと心配になるような激しいものも潜んでいることがあるからです。「性善説」だけではなかなかうまくいかないでしょう。ただ、そういったものの背後には何か、今はまだ微かかもしれないけれど、ちゃんと「本当に」「よりよい」何かが流れていて、耳を傾けてくれるのを待っている、ということをどこかで信じられるかどうかというのは、フォーカシングを学ぶ上でとても大事なことのような気がします。単純に「私の内側にあるものは全部素晴らしいものだ」と考える必要はありませんが、しかしどこかにしっかりと健全に自分自身でいようとする動きが隠れているかもしれない、というある種の信念、哲学を持って、自分にまなざしを向け耳を傾けることはとても重要です。それはフォーカシングを学ぶ上で、とても大事なポイントかもしれません。

(久羽)

ジェンドリン哲学